2025年3月11日火曜日

" 「3月11日」という日"のお話

*文中の写真は山名が了解を得たうえで撮影したものです。


3月11日を迎えました。









今日は特別な日。

「14年も前のお話」だなんて思っちゃいけない、忘れちゃいけない日なんです。

私は、この日がくると毎年お話しします。

校長である間ずうっとお話しするはずです。

伝えなくちゃいけないんだと思っています。

くりかえしくりかえし・・・。

私が見た「東日本大震災」を。

私のことばで。








14年前の3月11日。午後2時46分。

東北地方太平洋沖地震が発生しました。

その後、東北地方を中心に大津波が襲いました。

地震、津波等による災害は「東日本大震災」とよばれ、死者・行方不明者は2万人以上にのぼりました。


私は、震災発生から4か月後に石巻市に入りました。

そこには、復興と呼ぶには程遠い現実がありました。

大津波はこのまちにも襲いかかっていたのです。

避難所となった小学校の体育館、そこには、心と身体に震災のきずが残ったままの方々がたくさんいらっしゃいました。

私は、その避難所の運営に派遣されたのです。








■入所されていた高齢の女性を、「あと50cm手をのばすことができたら命を救うことができていたのに」といつも悔やんでいらっしゃった介護施設の所長さん

■私が体育館の床をアルコール消毒していると、いつも「おい いっぷくつけろ。」と声をかけてくださった高齢の男性。

■ワゴン車でやってきて、避難されている方々の人数分の腕時計を置いていってくださった金沢の時計屋さん








■被災者であり避難者でもありながら、食事を配る準備や作業を始めると必ずやってきて手伝ってくれた小学生

■私が石巻を去る日、大好きだったカップ麺「もやしみそ」を食べずにしまっておいてくれて、「ありがとう」と言ってプレゼントしてくれた小学6年生の女の子







この日がくるたび、必ず思い出す人たち。

" みなさん・・・

 今も元気でいてくださっているだろうか "と。








究極とも言える局面においても、他を思いやり、感謝の気持ちを片時もわすれることのなかった被災地のみなさんの強さ、やさしさに心をうたれた毎日でした。







思っていたんです。

" 真の強さと真のやさしさとは・・・

 常にセットで人の心の中に存在するのだ。"と。












当時はもちろん、今もなお思っています。

東北は、被災地は、まだ復興の道半ばです。

0ではないかもしれないけれど・・・

100でもないのです。

被災された人たちの震災は、まだ続いているのです。

そのことは、今日の報道が教えてくれるはずです。








今日、私は全校のおともだちにお願いしたんです。

「3月11日・・・

 いつもみてるテレビがあるかもしれません。

 けれど・・・

 少しだけがまんしてニュースをみてみてください。

 そして・・・

 自分のいのちもおともだちのいのちも・・・

 大切に考える子になってください。」って。


「万が一のことがあったとき・・・

 必ず無事でいてください。」って。









私はいつも機会があるたびに次のようにお話しするのです。


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万が一、本当の大地震が起こったときの恐怖は尋常ではないはずです。

冷静でいられることは困難なはずです。

でもそのとき、無意識にでも安全な行動をとることができる力は、訓練に真剣な態度でのぞむことによって身についていくのだと思います。






あわせてふだんから、いざというときどう行動するのか考え、そして、備えておくことが大切です。

真剣にのぞんだ訓練で身体が覚えたその経験とそのイメージこそが、万が一のときの自分を守ってくれることでしょう。







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打吹小学校のみんなが、どんなときもいのちを大切にする子どもでいてくれることを心から願っています。









「もやしみそ」をくれた小学6年生の女の子。

「将来は小学校の先生になるんです。」って・・・

避難所のすみっこに置いた電気スタンドのもとで勉強していました。


彼女は今26歳。

教師であるかどうかはべつとして、この春も彼女が元気で迎える春であってほしいと願っています。

今も食べることができないまま部屋においている「もやしみそ」を見ながら・・・。








" 「3月11日」という日 "のお話でした。






東日本大震災で被災されたすべてのみなさんにお見舞い申し上げますとともに、お亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。