2024年3月11日月曜日

" 「3月11日」という日"のお話

3月11日を迎えました。

今日は特別な日。









「13年も前のお話」だなんて思っちゃいけない・・・

忘れちゃいけない日なんです。


私は、この日がくると毎年お話しします。

校長である間ずうっとお話しするはずです。

私は伝えなくちゃいけないんだと思っています。

私が見た「東日本大震災」を。

私のことばで。








13年前の3月11日。

東日本大震災が起こりました。


私が災害支援派遣隊の隊員として入った石巻市・・・。

そこには、復興と呼ぶにはほど遠い現実がありました。

大津波はこのまちにも襲いかかっていたのです。

避難所となった小学校の体育館・・・

そこには、心と身体に震災のきずが残ったままの方々が・・・

たくさんいらっしゃいました。








■入所されていた高齢の女性を、「あと50cm手をのばせることができたら命を救うことができたのに」といつも悔やんでいらっしゃった介護施設の所長さん

■私が体育館の床をアルコール消毒していると、いつも「おい いっぷくつけろ。」と声をかけてくださった高齢の男性

■ワゴン車でやってきて、避難されてる人数分の腕時計を置いていってくださった金沢の時計屋さん

■被災者であり避難者でもありながら、食事を配る準備や作業を始めると必ずやってきて手伝ってくれた小学生

■夜通し起きている私たち派遣隊のところへ、真夜中になると地震と津波を思い出して、「ごめんね。」と言って泣きながらやってくる女子高生

■私が石巻を去る日、大好きだったカップ麺「もやしみそ」を食べずにしまっておいて、「ありがとう」と言ってプレゼントしてくれた小学6年生の女の子


この日がくるたび、必ず思い出す人たち。

" みなさん、元気でいてくださっているだろうか "と。







究極とも言える局面においても、他を思いやり、感謝の気持ちを片時もわすれることのなかった被災地のみなさんの強さ、優しさに心をうたれた毎日でした。








思ったのです。

" 「真の強さ」と「真のやさしさ」とは・・・

常にセットで人の中に存在するのだ。"と。








「東北は復興した。」・・・

こうした言葉を聞くことが増えました。

けれど・・・

当時はもちろん、今もなお思っています。

東北は・・・、被災地は・・・、まだ復興の道半ばです。


0ではないかもしれないけれど・・・100でもないのです。

被災された人たちの震災は、まだ続いているのです。

そのことは、今日の報道が教えてくれると思います。









今日・・・

私には、全校のおともだちへのお願いがあるんです。

「3月11日、いつもみてるテレビがあるかもしれません。

 けれど・・・少しだけがまんして・・・

 ニュースをみてみてください。

 そして・・・

 自分のいのちも・・・ともだちのいのちも・・・

 大切に考える子になってください。」って。


「そして万が一のことがあったとき・・・

 必ず無事でいてください。」って。









私はいつも機会があるたびに次のようにお話しするのです。

「万が一、本当の大地震が起こったときの恐怖は尋常ではないはずです。冷静でいられることは困難なはずです。

 でもそのとき、無意識にでも安全な行動をとることができる力は、訓練に真剣な態度でのぞむことで身についていくのだと思います。

 あわせて、ふだんから、いざというとき、どう行動するのか考え、そして、備えておくことがたいせつです。

 真剣にのぞんだ訓練で身体が覚えたその経験とそのイメージこそが、万が一のときの自分を守ってくれることでしょう。」


成徳小学校のみなさんが、どんなときもいのちを大切にする子どもでいてくれることを心から願っています。









「もやしみそ」をくれた小学6年生の女の子。

「将来は小学校の先生になるんです。」って・・・

避難所のすみっこに置いた電気スタンドのもとで勉強していました。


彼女は今25歳。

教師であるかどうかはべつとして、この春も彼女が元気で迎える春であってほしいと願っています。

今も食べることができないまま部屋においている「もやしみそ」を見ながら・・・。






" 「3月11日」という日"のお話でした。



東日本大震災および能登半島地震で被災されたすべての皆様にお見舞い申し上げますとともに、お亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。