3月11日(水)。
今年もこの日を迎えました。
*文中の写真はすべて山名が撮影したものです。
今日は特別な日。忘れちゃいけない日。
「15年も前のお話」だなんて思っちゃいけない日。
あの日から15年が経ちました。
今年もやっぱりお話しします。毎年、この日がくるたびに伝えなくちゃいけないんだと思っています。くりかえし。くりかえし。私が見た「東日本大震災」を。私のことばで。
15年前の3月11日 午後2時46分。
東北地方太平洋沖地震が発生しました。その後、東北地方を中心に大津波が襲いました。地震、津波等による災害は、「東日本大震災」とよばれ、死者行方不明者は2万人以上にのぼりました。
私は、震災発生から4か月後に、石巻市に入りました。そこには、復興と呼ぶにはほど遠い現実がありました。大津波はこのまちにも襲いかかっていたのです。避難所となった小学校の体育館、そこには、心と身体に震災のきずが残ったままの方々がたくさんいらっしゃいました。
私は、その避難所の運営に派遣されたのです。
■お勤めしていた醤油工場で、津波から逃れるために工場の台に登った若い男性。ひとが一人やっと立っていられるくらいの広さの台の上は津波の水面までわずか1mほど。助けがくることは期待できそうにないまま、あまりの寒さと疲労とで意識を失いそうになる中でひたすら朝を待ったのだそう。「あきらめないうちは生きているんだということがわかった」とおしえてくれました。
■入所されていた高齢の女性のことを、「あと50cm手をのばすことができたら命を救うことができたのに」といつも悔やんでいらっしゃった介護施設の所長さん。毎日毎日、来る日も来る日も、顔をしわくちゃにして自分を責め続けておられました。
■夜中の余震があるたびに、夜通し起きている避難所運営本部にやってきて、泣きながら「ここにいさせてください」と言った女子高生。「夜の地震は、あの晩の恐ろしさを思い出して身体が動きません」と言ってかたかたと震えていました。
■ワゴン車でやってきて、避難されている方の人数分(約250本)の腕時計を置いていってくださった金沢の時計屋さん。「じゃあ・・・」と言って走り去る車には、まだまだ箱が積まれていて、このあとも避難所をこんなふうにまわられるんだと、ただただ手を合わせるだけでした。
■被災者であり避難者でもありながら、食事を配る準備や作業を始めると必ずやってきて手伝ってくれた小学生。私が付けた「鳥取」のバッジを見つけてからは、私のことを「とっとりさん」と呼んで、とうとうお別れする日まで名前を覚えてはくれなかった・・・。(もちろん それでぜんぜんいい。)
■私が石巻を去る日、大好きだったカップ麺「もやしみそ」を食べずにしまっておいて、「ありがとう」と言ってプレゼントしてくれた小学6年生の女の子。彼女も私のことを「とっとりさん」と呼んでいたっけ・・・。(いまごろどうしてるだろ・・・)
この日がくるたび、必ず思い出す人たち。
" みなさん、元気でいてくださっているだろうか "と。
あれからあと・・・
この国の各地で・・・
地震は繰り返し起こりました。
覚悟を持たなければなりません。
万が一のとき・・・
必ず生き延びるんだという覚悟を。
備えなければなりません。
いのちを守ったそのあと・・・
どんな苦労があろうと・・・
自分を見失うことなく・・・
強く・・・そしてやさしく・・・
生きていくことができるための・・・
最低限必要なものと・・・
最大限の決意を。
私はね・・・
卒業式の練習をしている全校のみんなに・・・
こころのなかで伝えていたんです。
「万が一のことがあったとき・・・
必ず無事でいてください。」って。
「どうか・・・
自分のいのちもおともだちのいのちも・・・
たいせつに考えることができる・・・
そんな子になってください。」って。
東日本大震災をきっかけに・・・
“ 震災に備えよう・・・
そして・・・
「いのち」をたいせつにしよう ”・・・
そんな思いを込めて制定された・・・
今日 3月11日は・・・
「いのちの日」。
" 「3月11日」という日 "のお話でした。
東日本大震災で被災されたすべての皆さまにお見舞い申し上げますとともに、お亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
合掌。
打吹小学校 校長 山名 毅
「もやしみそ」をくれた小学6年生の女の子。
「将来は小学校の先生になるんです。」って、避難所のすみっこに置いた電気スタンドのもとで勉強していました。
彼女は今27歳。教師であるかどうかはべつとして、この春も彼女が元気で迎える春であってほしいと願っています。
今も食べることができないまま部屋においている「もやしみそ」を見ながら・・・。
(きっと・・・別の意味でも もう食べられないよね・・・)

















